2024年4月13日 講演会「越境するシュルレアリスムーヨーロッパと日本」

このページの情報をツイッターでツイートできます
このページの情報をフェイスブックでシェアできます
このページの情報をラインでシェアできます

ページ番号4001871  更新日 2024年4月16日

印刷大きな文字で印刷

4月13日(土曜日)、河本真理先生(日本女子大学国際文化学部教授)に「越境するシュルレアリスムーヨーロッパと日本」と題してお話しいただきました。
「シュルレアリスムと日本」展ではシュルレアリスムの影響を受けた日本の作品をご紹介しています。展覧会では海外の作品を展示していませんが、その比較により何が見えてくるのかを、西洋近現代美術史をご専門とされている河本先生に伺いたいと思い、お願いしたご講演です。

講演会では7つのトピックスに分けてお話しくださいました。
「第一次世界大戦 ダダからシュルレアリスムへ」では、ダダの発生、パリでの広まりからアンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」へとつながる歴史の流れをご紹介いただきました。シュルレアリスムは文学運動として始まり、日本でも詩の雑誌からシュルレアリスムの紹介が始まっています。展示中の『薔薇・魔術・学説』『馥郁タル火夫ヨ』などが挙げられます。

講演会 アンドレ・ブルトンのシュルレアリスム宣言

続いて、フランスと日本のシュルレアリスムを運動として概観することで浮かび上がってくる違いをご指摘いただきました。フランスではブルトンを中心とした組織であった一方、日本ではブルトンのような指導者、中核となる組織はありませんでした。挙げるならば本展でご紹介している、福沢一郎、瀧口修造、山中散生らはリーダー「的」な存在と見なすことができるだろうとのこと。彼らの周辺では若い画家、画学生を中心に、東京のみならず、京都や名古屋、福岡といった地域でもグループが結成されたのは、日本ならではの現象かもしれないとのことでした。

本展でもご紹介している小グループの宣言。これらを読み比べると、ブルトンの思想に沿ったもの、既成画壇への抵抗を示したものが見られる一方、戦争の時代に入ると直接的に「シュルレアリスム」を語らなくなる傾向もあるようです。ブルトンの宣言そのままで受容するのではなく、各グループで表現をするのが日本のシュルレアリスムの特徴として挙げられると指摘されました。
 

シュルレアリスム簡約辞典

「シュルレアリスム絵画は存在するのか?」と題したお話では、フランスでも議論されていたシュルレアリスムの探求する無意識が画家の絵画制作という意識的な行為に認められるのか、その難しさをめぐる議論についてお話しいただきました。その結果、「デペイズマン」の手法や地平線を強調した遠近法的空間が使われるようになり、それらは「すべて手で描いたコラージュ」(エルンスト「絵画の彼岸」)と見なされるようになったそうです。

続くパートでは日本においてもヨーロッパのシュルレアリスムの手法、特にコラージュの原理に基づく作品が多く制作されていたことをご指摘いただきました。本展でもご紹介している福沢一郎、古賀春江の作品は手描きによるコラージュの作例です。また、彼らの残した文章からは、日本の文脈に応じてシュルレアリスムの吸収が行われたことが確認できるようです。

「シュルレアリスムと機械美学」についてもお話をいただき、古賀春江の《鳥籠》を一例に機械装置(無機的なもの)と水鳥や花(有機的なもの)が並置されている、やはり「手描きのコラージュ」であることを示されました。

コラージュの手法の例

最後に展覧会の構成と合わせて「シュルレアリスムと政治/戦争」についてご紹介がありました。ヨーロッパでは多くのシュルレアリストが亡命をした一方、日本では1941年のいわゆる「シュルレアリスム事件」で主導者とされた福沢一郎と瀧口修造が検挙、拘留されています。画家たちの中には従軍した画家も多く、浅原清隆は戦地で行方不明になっています。
そして戦後については、戦地の経験がある岡本太郎、山下菊二の出品作品を挙げて、シュルレアリスムから受けた影響についてご指摘いただきました。

A4にして10枚のレジュメもご用意いただき、展覧会の序章から6章までをヨーロッパの動向と照らし合わせて振り返る、「シュルレアリスムと日本」展の板橋会場での締めくくりにぴったりの充実したご講演でした。

河本先生、ご参加の皆様、お忙しい中をありがとうございました。

戦後の作例 山下菊二 新ニッポン物語